言葉と刹那

そういえばNHK観てたら、「最近スポーツ中継などで“結果を出す”という言葉をアナウンサーが使うけれども、“結果”には良い結果と悪い結果と両方あるのだから、良いとか悪いとか言葉を足すべきではないか。そのままだと何か違和感を感じます。」という投書が来たりするそうで、ちょっと面白かった。
その言葉の意味、っていうのは時代の移り変わりと共に徐々に変わっていくものなんだな、っての実感する。
私は“結果を出す”という言葉を聞いて、ぜんぜん違和感ないし、前後の文脈から良い結果なのか悪い結果なのか判断出来るし、それに何より、最近はほぼ“結果を出す”という言葉には、成果を出すという、良い意味合いがすでに含まれているように感じて使っている人の方が多くなりつつあるように思うし。
ということは、映画とか音楽とかの作品も、それを“言葉”に置き換えるとしたら、その時の時代背景が前後の文脈になるわけで、厳密に言えば、同時代を生きた人にしか本当のところ理解や共感は得られないのではないかな、、と思う。
後から文献を当たって解釈をしても、それはもはや違うもの。
つまりは作品は刹那しか生きられない。
だとしたら、人もそう。刹那主義というと普通はその場だけの快楽に流される的に使われてしまうけれども、人は刹那しか生きられないわけで、だからこそ瞬間を大切にしたい思い、そしてその瞬間が永遠であればいいのに、、という気持ちが生まれてくるのではないかと。。