佐世保の事件

事件の背景になんらかの関連があるのではないかとされる「バトル・ロワイヤル」。
何の証拠もない段階で、しかもその道の専門家でもない人間が明言できるはずもないのだけれど、一個の統合された人格形成がなされる前に児童にはあまりに影響大だったのではないかと思う。
加害者が外見上普段通りでなんの変化も見えなかったのは、それは大人が自分の心を基準にして見ているからであって、小学生の精神発達段階ではあり得ることなのかもしれないし。

何を“文化”とし、何を“表現の自由”とするかは常に危険と隣りあわせで、縛ってしまうことによる危険、逆に社会や人間に与える影響の危険、そのどちらもあることを踏まえて、常に議論し意識していくことが大切なのではないかと思う。

アメリカの例をとれば、日本よりも“暴力シーン”に対する規制は厳しい。
あの自由の国アメリカでだ。
それはもちろんそこに至るまでに行われた様々な研究や討論、関連して起きたと思われる事件があるのだろうけれど。
この際、“自由”とは何かまで含めれば、表現の自由を担保するために逆に規制を設ける、という発想をもう少し取り入れるべきではないのかと思う。